Shoes

EU誕生の経緯とEUが抱える問題点

どのような経緯や思想をもとにEUは設立されたのでしょうか。また、どのような問題をEUは抱えているのでしょうか。

EU誕生の起源

EU創設の背景には様々な経済的、思想的動機が存在します。その理由のうちの1つは世界史上、初の世界大戦であり、膨大な数の破壊が起こり、社会的にも経済的にも大きなダメージを残した大戦の再発を阻止するというものです。また、他の要素として、二度の大戦を通して、土地や経済が荒廃し、世界における主導的地位を米国に奪われてしまったことへの焦りがありました。かつては世界をリードしていた立場、大戦を経て、アメリカに譲り渡されてしまったのです。その結果、欧州は新たな世界秩序の中で自らを再定義する必要に迫られ、そのために欧州連合の設立が必要とされたのです。

EUが目指したもの

欧州連合は、挑戦的な局面を突破する戦略として、独自の経路を模索しました。その具体的な手法として採用されたのは、各国が手を取り合って連合を形成するというものでした。それはただの象徴的な結束だけではなく、力強い実体を持つものであることが求められました。

EUは第二次世界大戦の惨禍から生まれました。この惨禍を経た後は、全欧州の人々が、政治的エリートであると一般人であるとを問わず、二度と同じことを繰り返してはならないと心に誓っていた。多くの人が国民国家の激情や対抗心を和らげる汎ヨーロッパ的な組織をつくならければならないと信じていた。声なき誓いはほどなく明示的なものとなる。その誓いがビジョンに変わり、ビジョンが現実に変わった。

年を経るごとにEUの加盟国も増加していきました。なぜ欧州各国がEU加盟を望んでいき、現在も多くの国が望んでいるのでしょうか。理由の一つは簡単で、EUが拡大すればするほど、非加盟国は外交、政治、経済の各面で居心地が悪くなっていくからです。非加盟国はEUの圧倒的な政治力に翻弄されることを、あるいはまた、なおも成長を続ける巨大な市場から締め出されることを恐れているからです。

実のところ、近年の加盟国のいくつかは、明らかに財政的な動機を持っていました。新たなメンバーは皆、比較的貧しい国々です。従って彼らは、実質的にEUから潤沢な金を受け取ってきました。それをまかなっているのは、実質的にEU財政を負担している豊かな加盟国です。

創設メンバーであると新顔であるとを問わず、各国の政治エリートたちは明らかにEU加盟に利己的な関心を持っていました。つまり欧州の統治に参画し、それによって利権や権力、そして金を手に入れようとしていました。こうした魅惑は小国であるほど強力です。なぜならEUは、小国にGDP比や人口比で表される数字以上の重みを与える構造になっているからです。

ビッグ3(ドイツ、フランス、イギリス)の政治エリートたちの場合は事情が違うが、金銭その他の面で、彼らには彼らなりのメリットがありました。ドイツにとっては、欧州でのけ者にされず、対等に受け入れられることが何より大事なことでした。そのため、ドイツの政治家や高官は長年、国際問題で出しゃばることを避け、少なくとも近年までは脇役に徹してきました。

一方、フランスにとっては、EUは世界における自国の権力や影響力を補強する手段でした。フランスが何か発言すれば、それはフランス一国よりもずっと大きな組織の言葉となりました。

イギリスの政治家と高官は帝国を失い、相対的な地位の低下が続いた戦後世界に腹立たしさを覚えていました。EU加盟は苦難の道でしたが、少なくともそれにより、イギリスのエリート層は世界に影響力を及ぼしうる場につけました。

欧州統合の取り組みは次のような5つの主要な信念によって支えられてきました。

  1. 次の欧州戦争を避けたいという願望

  2. 欧州は一つにまとまるのが自然だとする考え方

  3. 経済的にも政治的にもサイズが物を言うという発想

  4. 欧州が一つになってアジアからの挑戦に対抗する必要があるという認識

  5. 欧州の統合はある意味で不可避的であるとの思い

EU誕生の前触れとなったEEC(欧州共同市場)は、6つの国から創設されました。それは3つの小国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)と3つの大国(フランス、イタリア、ドイツ)から構成されています。彼らは皆、戦争の影を引きずっていました。5つの国はドイツを恐れていました。

第2の鍵となるのは、欧州が何世紀にもわたって分断されていたのは誤りだったとする感覚です。欧州の再統合は歴史的必然だとする考え方にはかなりの説得力があります。なにせローマ帝国の時代には西はイベリア半島から北東はライン川とドナウ川まで、北はスコットランドの南端から南は地中海の島々まで一つの国家だったのです。

第二次世界大戦に続く数十年間、世界は冷戦に支配され、米国とソ連を中心とする2つの陣営に分割されていました。かつては広大な植民地を抱えていたイギリスとフランスも、戦争による疲弊に帝国の解体が重なり、ソ連やアメリカと比べるとかなり矮小な存在に見えることになりました。もちろん西欧の国々はアメリカが主導する「西側」陣営に属していましたが、しかし、そのために米国に隷属する立場になったことは、欧州の豊かな歴史や文化を考えるといかにも不釣り合いなことでした。更に言うなら、多くの人にとってアメリカは美徳の鑑とは程遠いものでした。だが欧州が一つになれるならそうした二大国に対抗できる陣営になるはずでした。そしてその2つの威圧的な大国への対抗勢力が、何世紀にもかけて醸成された美徳を備えているなら、世界全体の利益になるはずでした。

また、これには経済的な側面もありました。欧州の人々は経済学的にもサイズが大いに物を言うことをよく知っていました。第一に、市場のサイズが「規模の経済」の大きさを決めます。第二に、他の国々やブロックと経済関係を結ぼうとするとき、サイズは交渉力の決め手となります。

大西洋の対岸からも、この欧州統合の動きを歓迎する気運が存在しました。アメリカの政治エリートは政治、経済両方の面から欧州が一つの共同体になることを期待していました。政治的には、終戦からの数十年間、アメリカは共産主義者の脅威を常に気にかけていましたが、欧州の統合が進めば、それが共産主義に対する防壁になると見られました。

経済的な理由も政治的なものと重なります。欧州が経済的に成功すればするほど、共産主義が広がる可能性は低いと考えられていました。また、欧州が繁栄すれば、貿易や投資によって米国の経済の潤うと考えられていました。世界的な安全保障や途上国への援助、国際機関などに対する米国の負担も軽くなると期待されました。そうした考えは、結果的に1974年からの4年間にわたる史上類を見ない財政援助政策マーシャルプランとして現実のものになりました。この欧州復興策でアメリカは毎年自国のGDPの1%以上を欧州に貸与したのです。

ソ連が解体され、米国の支配の終焉までもが地平線の彼方に見え始めた時、世界経済上には新たなファクターが浮上し始めました。アジアへの畏怖です。世界はいずれ中国とインドに支配されると考えられています。欧州が一つにならないなら、その国々は時代遅れの無力な存在に堕してしまうという不安が、欧州が一つにまとまることを促しました。

Photo:Adobe Stock

EUは経済的に成功したのか

確かに、初期のECは十分な成功の兆候を見していました。1957年から英国がECに加盟した1973年までの間に、ドイツは年率で平均4.7%、フランスは5.2%、オランダは4.6%、イタリアは5.3%の経済成長を遂げました。上記4か国に加えて、ベルギーとルクセンブルクを加えた、1957年にECを創設した国々全体では、年平均4.9%の成長率を誇っていました。これに対して、同じ期間の英国の年平均成長率は2.8%でした。これが英国をEC加盟に傾けさせたのです。

しかし、実のところ、上記6か国の力強い経済成長は、必ずしもEC創設の利益を証するものではありませんでした。いずれの国も戦火による後輩から復興する過程で、急速な成長を遂げていたのです。

初期の明白な成功とは裏腹に、ここ20年間は、大半のEU加盟国の経済成長率は期待を下回っています。自国の過去の経済成長率に追いつけないばかりか、米国や、同じEUの一員となった英国にさえ遅れを取っているのです。ましてや急成長するアジアの虎たちに比べるべくもありません。

1980年から2007年までの期間、年平均の経済成長率はフランスで2.1%、ドイツで1.6%、オランダで2.4%、イタリアで1.8%でした。それに対し、イギリスは2.4%、アメリカは2.9%となっています。

移民問題

ここ数年、移民問題はEUにおいて大きな懸念点となっています。もともと、EU域内において労働力の自由な移動を合法化したのは、人々がEU内のあらゆる場所で自分の望む仕事を見つけられるなら、生産量と幸福度は最大化すると考えたからです。ロンドンに住みたいフランス人はロンドンに住み、ベルリンに住みたいイギリス人はベルリンに住む、このような自由な移動は、雇用者にはより多くの人材プールから自社に適する人材を見つける機会を、労働者には多くの仕事の中から魅力的な仕事を選ぶ機会を与えるという点で、域内全体を幸福にするものと考えられていました。

しかし、現実にはそうはなりませんでした。むしろ特定の国々の市民が、別の国々に大挙して移り住む傾向が生じました。たとえば、英国は2005年からの10年間で、ポーランドを中心とする旧東側諸国から100万人にも及ぶ移民を受け入れることになり、それがイギリスのEU離脱の一員となりました。

移民に対する大衆の懸念には大きく分けて4つの要素があります。まずは純然たる数の問題です。

イギリス人はイギリスは既に満杯だと考えており、交通機関や住宅、公共サービスへのアクセスに関しては、「混雑」の問題が生じていると感じていて、度重なる移民の押し寄せがその問題を助長させていると感じていました。

二つ目はアイデンティティに関する問題です。欧州の多くの国で、その国生まれの人々が、他国から来る人々によって自分たちの文化や伝統が脅かされていると感じています。

三つ目の懸念は、財政負担に関わるものです。すなわち、移住先の国で暮らした経験が浅く、そこで税金を払っていない移民たちが、無料の医療給付や雇用関係の給付、児童手当といった福祉国家の恩恵を得ているのです。これが原因で、多くのイギリス市民たちは自分たちがカモにされているのではないかと感じていました。

四つ目の、そしておそらく最も重大な懸念は、雇用に関するものです。移民はその土地の労働者から雇用の機会を奪うと広く信じられています。

unsplashより抜粋

ユーロ 共通通貨という幻想

単一通貨ユーロは欧州統合の焦点となってきました。しかし、これはEU解体の原因になるかもしれません。この単一通貨導入は、必要不可欠だったわけではなく、準備も不十分なまま見切り発車的に行われた事業だったのです。通貨まで統合するのはあまりにも先走りすぎだったと言えるでしょう。

ユーロ誕生の経緯

欧州の単一通貨に関しては、1970年のウェルナー報告書で早くも論じられています。その報告書において、3段階のプロセスを経て、10年以内に経済通貨同盟を創設することが理想とされていたのです。

それではなぜ、欧州の統合を望んだ人々が単位通貨の創設を主要な目標にしたのでしょうか。それは共通の通貨が共通の国家につながるからです。ヨーロッパ諸国は財政同盟や政治同盟の手はずを整えずに、欧州統合という理想にしか目を向けないまま、盲目的に通貨統合を実行したのです。それが、新通貨ユーロ導入当初から、深刻な設計上の欠陥による問題を引き起こすことにつながりました。

ユーロは国家のデフォルトや経済危機が起きたときにどうするかについては何も決められておらず、ユーロの設計者たちはまるで金融の歴史を知らなかったかのような脆弱性を秘めたものでした。そうした内側に隠れていた脆弱性は、まさに2008年の金融危機のときに露出し、ユーロ経済圏に大きな打撃を加えることになったのです。

自国通貨を持つ国は経済危機が起きた際や他国との貿易関係に不満がある場合、為替レートの調整などによってそれをある程度調整することができます。しかし、ユーロ導入国は共通の通貨を用いているため、そうした為替レート調整という安全弁を持っていません。その結果、2008年に端を発する経済危機に際して、大きな打撃を受けることになりました。景気後退期の常で政府赤字が増大し、これとGDPの落ち込みが相まって、公的債務の対GDP比は急騰しました。おかげでそうした国々のデフォルトのリスクは深刻化し、それに応じて国債利回りは上昇、借入れを行う政府にとって破滅的な水準にまでなりました。

unsplashより抜粋

参考文献

この記事は主に以下の資料を基にして書かれました。

『欧州解体 ドイツ一極支配の恐怖』 ロジャー・ブートル著

関連記事
EUでビジネスを行うメリットとどの国で始めるべきか
なぜEUは国際的に強力な規制力を持っているのか
ヨーロッパに海外展開する際に留意すべき点4選