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近代から現代までのドイツ経済発展の歴史

産業革命後発国であるドイツはいかにして、世界屈指の製造力を持つにいたったのでしょうか。 第二次大戦後、欧州各国がドイツから牙を抜こうとしたのに、いったい何がEU内でのドイツの支配力向上を促したのでしょうか。

ドイツの産業革命

世界初の産業革命であるイギリスの産業革命が18世紀の後半から起こったのに対して、ドイツの産業革命はイギリスには遅れをる1930年代ごろに始まりました。 イギリスの産業革命が綿工業から始まり、鉄道の建設でいちおうの落ち着きを見せたのに対して、ドイツは産業革命の先駆者であるイギリスにいち早く追いつくために鉄道の建設か産業の近代化・効率化を始めました。 そして、新たな産業としての電機、自動車、化学、ディーゼルエンジンなどの新規産業・技術を開発し、いち早く重化学工業を確立しました。

ドイツが鉄道建設に端を発する重化学工業を進めているのと同時期に、ドイツの産業革命の深化を後押しする重要な要素である株式会社の制度も誕生しました。重化学工業は大きな資本を必要とするもので、とうてい個々人が持つ資本ではその生産を賄いきれません。そのため、複数の個々人があるプロジェクトのために共同的に資本を拠出しあう株式会社の制度が必要とされたのです。

こうしたドイツの重化学工業の発展をけん引したのが、ドイツの西側に位置するルール地方でした。ルール地方では、13世紀より石炭が採掘されており、19世紀半ばには、多くの炭坑、コークス工場、製鉄所、さらには鉄を加工する工場が発展し、ドイツ屈指の重工業地域が形成されました。また、1870年代の普仏戦争で、フランスに勝利したドイツは鉄鉱石産出地のアルザス・ロレーヌを獲得して、一流の工業国へと加速すると共に、プロイセン国王ヴィルヘルム一世が初代皇帝となるドイツ帝国が誕生しました。

普仏戦争でフランスに勝利し、パリのヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の初代皇帝として戴冠式を行うヴィルヘルム一世(https://sekainorekisi.com/world_history/ドイツ帝国の成立/より引用)

19世紀末には、繊維産業の利益がこれ以上上がらないなど「衰退産業」となることで、資本主義も成熟期を迎え、成長が停滞していましたが、こうした重化学工業の発展が、そうした停滞を破り、資本主義を長期の不況から突破させ、新たな成長を導いていきました。

しかし、資本主義の平和的な発展が続いたのはここまでであって、それ以来はもっぱら二度の世界大戦や冷戦によって工業生産力は増大していったのでした。

二度の世界大戦

世界史が初めて体験した世界大戦である第一次世界大戦は1914年からの4年間続きました。この国家の存亡をかけた戦いは各国に緊急の軍事技術の発展を求め、各国家は戦争に勝つための技術の発達に莫大な資金の支出を行いました。この大戦を機に、世界で初めて飛行機が実戦投入され、世界史上初めて、人類は空をも戦いの舞台にしました。ドイツもいち早くUボートと呼ばれた潜水艦を有効活用し、イギリスと欧州大陸間の物資補給を阻止する無制限潜水艦作戦を行い、それがアメリカの参戦を引き起こしました。

こうした第一次世界大戦によって、科学・技術は飛躍的に発展し、大戦終結後からは、アメリカでヘンリー・フォードが自動車生産に用い始めたようなベルトコンベア方式のプロセス・イノベーションの進行によって、大量生産・大量消費の時代が訪れました。資本主義はさらに高次の生産力水準に到達し、すさまじいコスト削減が可能になり、それまで贅沢品であった自動車は誰もが購入できる大衆商品となり、爆発的な消費量の増加をもたらしました。

フォードが生み出したベルトコンベア方式の大量生産(https://kari-kari.net/manmonth/2217/より引用)

第一次世界大戦終結から約20年後の1939年から1945年までの6年間起こった二度目の世界大戦である第二次世界大戦では、唯一戦場にならなかったアメリカは、連合国の「生産工場」となり、重化学工業がとことんまで発展しました。この世界大戦で戦場となり、国土を戦火で蹂躙されたヨーロッパ諸国は世界での指導的地位をアメリカに譲り渡すことになりました。

戦後のドイツとEU

1945年に第二次世界大戦が終結して間もなく、世界はソ連が中心となる社会主義の「東側陣営」とアメリカを盟主とする資本主義の「西側陣営」とに分かれました。

また、ドイツはそうした西側陣営と東側陣営に東西を分割統治され、ヨーロッパ最強の工業地帯であるルール地方を持つ西ドイツと、東エルベを中心として豊かな穀倉地帯を持つ東ドイツとに分割されました。

ヨーロッパの復興

ヨーロッパ諸国は二度の世界大戦によって、世界の中心的地位を失い、代わりに二度の世界大戦を経て成り上がったアメリカと、社会主義圏を周囲に拡張しようと支配権を広げるソ連という二つの巨大大国に挟まれることになりました。

そうした新たな世界秩序の中で、それらの大国に飲み込まれずに対抗するために、一定の政治的・経済的パワーを持つ必要があるという思いや、「ネバー・アゲイン」という合言葉にもあるように二度と悲惨な戦争を起こさせないという思いから、欧州を統合させるべきだという議論が、主にフランスから起こっていました。

また、フランスにはそういう思いとは別に、普仏戦争、第一次、二次世界大戦と三度、国土に攻め入ってきたドイツが再び経済的・軍事的パワーを取り戻して、自国の脅威となることをひどく恐れていたため、それを阻止するためには、西ドイツを西欧経済圏に取り込まないといけないという思いもありました。欧州統合が、軍事の根幹にかかわる鉄鋼と石炭の生産を共同管理課におこうとしたことから始まったのはそのためでした。

1951年に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が、フランス、イギリス、ドイツ、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの6か国で成立しましたが、これはフランスが自国の鉄鋼業の発展のために、ドイツから石炭を安定的に確保すると同時に、ドイツから鉄鋼、石炭の自由なコントロールを奪うことが目的でした。

この欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)に端を発した欧州統合の流れは以下のようなものです。

1951年 欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)設立

1958年 ヨーロッパ経済共同体(EEC)設立

1960年代 共通農業政策の実施、関税同盟の完成、ヨーロッパ共同体(EC)の結成

1970年代末 欧州通貨制度の創設による通貨安定システムの構築

1990年代初頭 域内単一市場の実現と欧州連合(EU)の設立

1999年 ユーロ導入

このように欧州が着実に統合へと歩を進めており、市場統合やそのさらに大きな目標である通貨統合実現のための議論が行われているさなか、1989年にベルリンの壁が崩壊し、とうとう1990年には東西ドイツが統一されました。

このドイツの統一は欧州各国のリーダーたちに、かつての強力なドイツが再び出現するのではないかとの強烈な危機感を感じさせ、そうした恐怖心に押されて、欧州の首脳陣は市場統合と通貨統合の実現を急ぎました。

1991年に合意された、通貨統合のマーストリヒト条約によって、フランスは東西ドイツの統一をみとめるのと引き換えに、ドイツに、世界最強といわれた通貨ドイツ・マルクを捨てること、すなわちユーロの導入を受け入れさせました。しかし、ドイツの世論はユーロを捨てたくなかったため、設立される欧州中央銀行(ECB)は、政府からの確固たる独立性を保持し、物価安定のために金融政策をおこなってきたドイツ連邦銀行並みの緊縮財政を各国に要求する中央銀行となりました。

EUとその本部ブリュッセル(Photo : Adobe Stock)

戦後ドイツの経済成長

戦後のドイツはソ連とアメリカに東西を分割され、1989年にベルリンの壁が崩壊するまで、それぞれの管理下に置かれており、西側は資本主義の、東側は社会主義のイデオロギーのもとで経済政策も行われていました。

社会主義イデオロギーを持つ東ドイツは、少なくとも建国当初は、ソ連の支援もあって、建前上は労働者のための国作りを行いました。低廉な住宅を大量に提供し、雇用機会を確保し、失業はなく、福祉も充実するとともに、託児所が完備されたので、女性の積極的な社会進出も可能になったといわれました。

資本主義の西ドイツは、こうした東ドイツに対抗する必要に迫られ、国民に高賃金・高福祉を与えたり、良質な住宅の低価格での提供を行うなど、労働者に「譲歩」せざるをえない立場におかれました。

また、西ドイツは、農業地帯であった東ドイツを失ったことにより、広大な国内市場と食糧基地を失い、それによって西ドイツは戦前以上の重化学工業中心の輸出大国を目指す必要に迫られました。

また、戦時中のアメリカはドイツが二度と危険な存在にならぬようにドイツの強みである重化学工業を潰し、農業国に転換させようと考えていましたが、世界史はそれを許しませんでした。

社会主義国のソ連の台頭により、東欧諸国がのきなみ社会主義化したため、西ドイツを反社会主義の防波堤にしなければいけなかったのです。

戦後、アメリカは西ドイツへの経済援助で、原材料や燃料を中心に供給したため、西ドイツは残存重化学工業を再回転させることができ、1950年には戦前の生産水準に復活することができました。

戦後には社会主義国のソ連との覇権競争に迫られたため、自身は軍事産業に特化して、最先端の科学・技術開発に専念し、従来型産業の重化学工業は日本や西ドイツに任せるという「国際分業体制」とでもいうべきプランを採用したのです。

西ドイツの高度経済成長

そうして、1950年には戦前の生産水準に到達した西ドイツは、50年代には高度経済成長を実現し、50~58年の年平均実質国民総生産拡大率は7.8%でした。この時期に高度成長が達成された要因は、次の点にあります。

  1. 世界史的条件が変化し、日本と同じように西ドイツもアメリカによって「反共の防波堤」と位置付けられ、さまざまな援助を受けることができた

  2. 戦争での生産設備の被害は意外に少なく、戦後、残存生産設備がかなりあったこと

  3. 西欧の復興需要が西ドイツの重化学工業製品を必要としたため、輸出が大幅に増大したこと

  4. 東ドイツから移民・難民という形で労働力が大量に流入したこと

  5. 戦争に負けたことで、経済の非軍事化が徹底的に行われ、民生部門の生産に特化することが可能になったこと

高度経済成長以降のドイツ

西ドイツの高度経済成長は1957~58年不況を画期としていちおう終了しました。高度経済成長終了後、西ドイツは、日本のようにアメリカにマーケットを求めるというのではなく、1958年に設立されたEEC(欧州経済共同体)に深く関与することによって、ヨーロッパのマーケットを基盤に「輸出大国」として再生の道を固めていく方向を選択しました。

その結果、西ドイツは1960年代には安定成長に移行しました。これの主な要因は、西ドイツの高度経済成長が、日本のようにあらたに巨額の設備投資をして景気を高揚させるというものではなかったということが挙げられます。

1970年代に入ると、西ドイツ経済もオイル・ショック以降の世界経済の低迷に影響されて、景気の低迷が続きました。

そうした経済停滞に見舞われていた西ドイツ経済ですが、1982年を転機として回復基調をみせ、80年代後半には、ECの域内市場統合をめざすヨーロッパ全体の経済成長にも触発されて、経済が成長するきざしがみられるようになってきました。

そして、1989年にベルリンの壁が崩壊し、1990年に悲願の東西ドイツ統一が実現されると、ドイツには統一景気がおとずれ、アメリカやヨーロッパ諸国の住宅・資産バブルよりも10年早く、住宅バブルが発生しました。

ドイツの中堅企業

ドイツでは中堅企業とよばれる中小企業が、国内生産高の半分以上を占め、ドイツ経済をささえる屋台骨を作っています。ドイツでは、全体の99%以上が中小企業であるが、2010年で、国内総生産額の約52%、全ドイツ企業の売上高の約39%を占めています。ドイツの中小企業は相対的に高い国際競争力を持ち、ドイツ経済の屋台骨を支えているのです。

ドイツのモノ作りは、マイスター制度といういわば現代版の「徒弟制度」のもとで、その質が担保されてきました。マイスターという親方が製品の質を保持するとともに、丈夫で長持ちする良いモノ作りに専念してきました。このいいモノ作りの伝統と精神は、21世紀の現在でも継承されています。

また、ドイツではIoTによる第四次産業革命が進展しているといわれています。ドイツの産官学は、2011年から第四次産業革命というスローガンのもとに、政府が資金を出し、数百の企業や大学が連携して、規格作りや技術開発をすすめています。

世界的に強い製造力をもつドイツ(UnsplashCollab Mediaが撮影した写真)

いかにしてドイツはEU内での支配的地位を高めたか

ドイツは初めEUに加盟したとき、第二次世界大戦の反省から、政治の場では目立った動きはせずに、外交や政治における花はフランスにもたせて、自国は経済に集中していました。しかし、今日のEUではドイツは他国に比べて圧倒的な経済パワーを持つとともに、EU内の決定に関する政治的パワーも持つようになっています。

ドイツが政治的発言力をEU内で高めていった契機となる出来事は、2008年の世界的な金融危機です。

EU内でのユーロ導入が1998年に決定されて以来、南欧諸国などの財政的に怠慢な国々もユーロを採用していきました。それらの国はユーロを取り入れることによって、金利が大幅に低下して、資金をたくさん借りることができ、それによってバブルが発生しました。スペインやアイルランドでは住宅・建設ブームがおとずれ、ギリシャやポルトガルでは、国債の発行金利が劇的に低下したことで、国債を大量発行するような放漫財政によって景気が高揚しました。すなわち、前者では住宅・建設バブルがおとずれ、後者で国際バブルが生まれました。

こうした砂上の楼閣は、2008年の世界的な金融危機前後に崩壊し、特にギリシャではデフォルトに陥る危険にまで見舞われました。こうしたユーロ崩壊による世界恐慌勃発の危機に対処したのが、もっぱらドイツでした。ヨーロッパの経済大国であるドイツが、大量の金融支援の資金を供給しなければ、ユーロは崩壊してしまいます。ドイツはギリシャなどの重債務国に金融支援をおこなうのと引き換えに、きびしい緊縮財政の実行を押し付けました。こうして、ユーロの擁護ということだけでなく、自国の経済をささえるために、ヨーロッパ諸国は、ドイツに追随せざるをえなくなりました。

また、冷戦が終了し、大国が武力で雌雄を決する時代が終結すると、圧倒的な経済力を持つ国が政治的発言力を獲得するようになりました。こうして、ドイツがEU内における自国の地位を高めたと言えるのは次の2つの理由によります。

  1. 北欧・東欧諸国のEUへの加盟 これにより、ドイツの東欧回帰を促進し、ドイツは巨大な経済圏を獲得して利潤をあげ、経済はさらに強化され、政治的発言力が強化されました。

  2. フランス国力の目をおおうような凋落・没落 フランスの主要な産業は、軍事工業でした。フランスは「放漫財政」と「インフレ経済」を基調としています。それが、ドイツから緊縮財政を迫られれば、景気が低迷するのは当然のことです。そうしたなかで、ギリシャの金融支援となれば、財政赤字の多いフランスは当然何もできません。いきおい、財政黒字のドイツが前面に登場し、ギリシャ支援を仕切り、政治的な決定においても重要な発言力を持つようになりました。

以上が近代から現代までの大まかなドイツ経済の発展の歴史です。

参考文献

この記事は以下の文献を参考にして書かれました。

『ドイツはEUを支配するのか 現代の”帝国”が進める欧州統一への道』 相沢幸悦著